「ユネスコ世界の記憶講演会 世界の記憶と国指定史跡-筑豊炭田の歴史を承継する博物館の取り組み-」邑久光明園(瀬戸内市邑久町虫明)

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2019年2月10日(日)
国立療養所邑久光明園(岡山県瀬戸内市邑久町虫明6253)で開催された講演会に参加しました。
「ユネスコ世界の記憶講演会 世界の記憶と国指定史跡-筑豊炭田の歴史を承継する博物館の取り組み-」
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今回、私がこの講演会とフィールドワークに参加した理由、それは「知らないことだから、事実を知りたいと思ったから」です。

2018年9月に地域おこし協力隊として着任した初日、自分がこれから活動する「瀬戸内市移住交流促進協議会(通称:とくらす)」の会長が瀬戸内市内を案内して下さり、途中、裳掛地区コミュニティ協議会会長 服部さんと待ち合わせして、邑久長島へ行くことになりました。
(光明園と愛生園に協力をお願いしていた真備町水害復興義援金の募金箱の回収に行く、ということだったので同行した)

正直に言うと、島に渡る瞬間にほんの少し身構えました。
「ハンセン病って、確かうつる病気って言われてなかったっけ?でもそうじゃないって確か、国が謝罪したとかテレビのニュースでやってたよなぁ・・・でも、でも、実際どうなん?あれ?私・・・・ハンセン病についてなんも知らんやん・・・」
頭の中を、らい予防法が廃止されたときのニュースや、ハンセン病患者がホテルで宿泊拒否をされたニュースなどがグルグル飛び回りました。

そして、ずっと忘れていた光景を急に思い出しました。

子どもの頃、時折、母に連れられて訪問したお宅にハンセン病の回復者と思しき方が居られたこと。
その方の変形して硬くなった手にハンドクリームをつけて、母がマッサージをして差し上げると嬉しいと涙を流して喜んでおられたこと。
私が一緒に行くと、大層喜んで下さり、いつもお菓子をくれたこと。
(当時、美容部員だった母は通常の営業活動の合間に、身体事情で日常生活に不便を感じている方のお宅を訪ねては、ボランティアで眉カットやお肌の手入れ、時には家事代行のようなことをしていました。社協や福祉団体に所属していたわけではなく、あくまでも個人的に)

その場面に自分も居たはずなのに、なんで忘れていたんだろう・・・。

後日、夫と共に国立療養所長島愛生園歴史館を訪ねました。
2階の企画展示では、岡山県立邑久高等学校新良田(にいらだ)教室の生徒達が書いた文章が展示されていました。
ひとつひとつ、ゆっくり読みました。
1周回って、もう1周。
知らないでいた自分をひたすらに恥ずかしいと思いました。
ただ、私のように”知らない人”が世の中にはきっと多くいるだろう、とも思いました。

ハンセン病に限らず世の中にある差別や偏見は、知らないことから起きるのだと思います。

今回、この講演会とフィールドワークに参加したことで、今後、私がどれくらい長島の世界遺産登録に向けての活動に関わることになるのかは自分でもわかりません。
「知らないから知りたい」なんて自分勝手な動機で、場違いな参加者だったかもしれません。

ただ、瀬戸内市にやって来てすぐに長島を訪れる機会を得たこと。
そして、北九州市出身で田川市に親戚がある夫から、九州の炭鉱についてかねてよりいろいろな話を聞いていたことなどで、今回の講演会が私にとって、なにか”縁”があるもののように感じたのです。
(こじつけみたいですが、光明園の前身である”第三区連合府県立外島保養院”があった場所が、かつて自分が暮らした西淀川区歌島から車で10分程のところだったということも)


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園内施設(うち5つは登録有形文化財)をめぐるフィールドワーク参加者は13:00に長島大橋に集合。
邑久光明園自治会長 屋 猛司(おく たけし)さんの案内で以下の施設を見学。
「瀬溝の渡」⇒「物資搬入通路」⇒「監禁室」⇒「奉安殿」⇒「裳掛小・中学校第三分校(光明学園)」⇒「恩賜会館
※は平成30年11月に登録有形文化財として登録。


「瀬溝の渡」
右手に見える水色の橋は、昭和63(1988)年5月9日開通した「邑久長島大橋」。
この橋は「強制隔離を必要としない証」として「人間回復の橋」と呼ばれています。
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裳掛地区コミュニティ協議会会長 服部さんも参加


物資搬入通路」昭和13(1938)年
船で運ばれてくる食料品や炭・石炭等物資の荷揚げ用に使われていたそうです。
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下から見たところ。物資は桟橋からここまで入所者自身が運んだそうです。
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写真ではわかりづらいけど、結構な急勾配。


「監禁室」昭和14(1939)年
大正5(1916)年療養所長に懲戒検束権が附与され、昭和6(1931)年には「国立らい療養所患者懲戒検束規定」が制定、園長の権限で監禁室の使用が認められました。親の不幸で帰りたくても許可が出ず逃走し、やがて帰園した者、松の木を1本切った者、賭博をした者等が監禁室に入れられました。当時この敷地は、入所者の立入禁止区域で今のような道はなく、監禁される者は自分で布団を担ぎ、船で監禁室の下の浜に乗せられてきました。食事は1日1回、2個のにぎり飯と沢庵1切れ、梅干1個と水であったそうです。監禁室は昭和14(1939)年から昭和26(1951)年まで使用され、その後、廃墟となっていましたが、平成14(2002)年5月に歴史的建造物として修復し保存されています。(出典:フィールドワーク参加者向け配布資料)
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冬でもこの部屋に布団1組だけ。
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「奉安殿」昭和18(1943)年
ハンセン病患者救済に尽力された貞明皇后(昭和天皇生母)の写真を奉安する施設。
戦後、GHQの神道指令のため、日本国内で多くの奉安殿が解体などされたそうですが、この奉安殿は繁みに隠されていて、GHQに見つかることはなかったそうです。
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「裳掛小・中学校第三分校(光明学園)」昭和14(1939)年
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「恩賜会館」昭和16(1941)年
恩賜会館の名のとおり、皇太后陛下の御下賜金を基とし、大阪府をはじめ2府10県の連合府県より資金を集めて建てられました。園内の集会所として、自治会関係の集まりに、また短歌会や俳句会等の会合にも頻繁に利用されてきました。(出典:フィールドワーク参加者向け配布資料)
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産経ニュース「ハンセン病療養所「邑久光明園」で備前焼のトトロ 小学生らと交流へ」
https://www.sankei.com/region/news/150316/rgn1503160039-n1.html
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14:15~16:00「田川市石炭・歴史博物館」の学芸員、福本寛さんによる講演
(※以下、当講演会の参加者募集案内より一部抜粋)
福岡県田川市は「炭鉱のまち」の歴史が日本で初めて世界の記憶(世界記憶遺産)に登録された「山本作兵衛コレクション」として、また、国指定史跡「筑豊炭田遺跡群 三井田川鉱業所伊田抗跡」として継承されています。ハンセン病療養所の歴史と力強く生き抜いた療養所入所者の歴史を世界文化遺産として登録するには構成資産が国の重要文化財や史跡に指定される必要があります。今回、田川市石炭・歴史博物館から学芸員の福本寛さんをお招きし、登録・指定までの経緯やこれらの文化財の活用状況、関係者の活動状況をお伺いする講演会を開催します。

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炭坑の「明と暗」
北九州市出身で幼い頃から炭鉱を身近に感じてきた夫から聞くのは「暗」の話の方が多い。
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耐火煉瓦の「BIZEN-INBE」の刻印を「バイゼン」と読み違え、この煉瓦はドイツ製なんだなと思ったら備前(ビゼン)だった・・・で、それまで硬かった会場の空気が少し緩んだ。

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光明園のキャラクター「こみょたん」
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第三区連合府県立外島保養院(模型)
この跡地から車で10分程度のところに住んでいたのに・・・まったく知らなかった。
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この日は鳶が激しく飛び回っていた
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くちなしの花言葉は「幸せを運ぶ」
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屋 猛司(おく たけし)さんについて(ハンセン病制圧活動サイト)
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隔離から開放へ
邑久光明園の歩み
国立療養所 邑久光明園の歴史は、1909(明治42)年「第三区府県立外島保養院」の開院からはじまりました。
1934(昭和9)年の台風被害により長島への移転、その後治療薬プロミンの発見、邑久長島大橋の開通、隔離政策のもととなる「らい予防法」廃止、そして地域に開かれるまで・・・・・・。
この邑久光明園の歴史は、誤った政策による隔離からの解放への歴史であったと言えるでしょう。
資料展示室では、邑久光明園とハンセン病に関する歴史資料の数々を展示しています。差別や偏見のない社会を築くために、一人でも多くの方が歴史の真実を知り、周囲の方々に伝えていかれることを願っています。(出典:園発行パンフレット)



国立療養所 邑久光明園


国立療養所 長島愛生園

長島愛生園 歴史館

特定非営利活動法人 ハンセン病療養所世界遺産登録推進協議会

新良田教室一期生 最後の同窓会 -同窓生の青春をたどる-

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